しばらく絵を見つめていて気が付いた。視線を上げなくてもわかる。三谷陽の影が、ずっと智哉の横顔に被さっている。
 成り行きで、昔からの友人であるかのように一冊のスケッチブックを見下ろし、二人は顔を寄せている。彼女の細い腕と智哉の腕がぴたりと密着しているが、陽はどう思っているんだろう。寒い季節だから、何とも思っていないのだろうか。
 俯いたまま、あのさ、と声を漏らしたものの、続く言葉が出てこない。まず何から訊くべきだろう。
 なぜ、桜の絵しか描かないの?
 なぜ、こんな寒い日にまで、咲いていない桜を見に来るの?
 この男性は誰?

 すると、智哉が訊くより先に、陽が口を開いた。
「里中さん」
 顔を上げ彼女と目が合うと、改めてその距離の近さを思い知らされた。それは陽も同じだったのか、一瞬その視線がぷると揺れた。彼女の顔全体が緊張のために赤くなっていく。
 その様子を目にするまで、クールな三谷陽が顔色を変えるなどありえないと智哉は思っていた。でも目の前の陽は、人見知りの女の子のような反応を見せ、唇を開いたまま言葉を失っている。
「なに?」
 そう訊いて、智哉は軽く背筋を伸ばした。身長差の分だけ距離が開く。
 彼にとっても、呼吸が耳に届くような距離は心臓に悪い。
「あの……。そう……、里中さんは、どうして桜の写真ばかり撮るのかな、と、ずっと思ってたから訊いてみたくて」
 陽はまだ恥ずかしそうな顔をして、静かに言った。
「ん?……桜の写真?」
 智哉は、まさか自分が質問されるとは思っておらず、戸惑いながら陽の顔を見つめた。
「写真はおととしが最後で……それ以降は撮ってないよ」
「それは、おととしの春に何かあった……とか?」
 思わず、え?と訊き返すほどの直球の質問に戸惑った。
「あー……そうだな……何か、あったような気がする」
 そんなこと、なんとなく想像してくれよ、と思いながら智哉は苦笑した。過去、必要な時に必要な事をしてきただけであって、今は自分にとって、桜も写真も必要無くなっただけなんだ。
 それなのに、三谷陽は、追及をやめなかった。
「それは、もしかして、好きだった人のことを想って……?」

 智哉はまっすぐ陽の瞳を見ながら、頭の中では橋本花梨の顔を思い描いていた。


 ずっと彼女と向き合ってきた。
 それなのに、花梨に対して具体的に何をしてあげたのかを思い出せない。彼女が喜ぶ顔は桜の季節に紛れていて、自分はただ景色を眺めていただけのような気がする。

『智哉は、私なんてイラナイんでしょ? 私は、私を必要としてくれる人と一緒にいたい』
 花梨はあの時、冷めた目でそう言った。
『やっぱり20代で結婚したいし、子供も欲しいし。……前から、周りに言われてたの。十年も付き合ってたら、そのままずるずる行って、結婚するキッカケを失くしちゃうよって』

 周囲の助言は正しい。あの頃、自分は彼女の前でどんな人間であればいいんだろうと、その答えをずっと探していた。多分、あのまま花梨と付き合い続けていても、答えが出ない限り、結婚しようとは言わなかっただろう。彼女が別れを選び、ほかの男との結婚を決めたのも、仕方ないことだった。
 花梨が去ったことで、それまで彼女のために長い間守ってきたルールや習慣は、不必要なものになった。
 写真も。
 桜も。


 ぼんやりとしている智哉に、陽が言葉を続けた。
「好きな人との想い出だから、もう桜に関われない……。そういうこと、なの?」
 その言葉が智哉を現実に引き戻す。
 陽へと意識を向けさせる。

 穏やかな、まるで春の日差しのようにあたたかい笑顔をこちらへ向けていた。仕事中に見かける、人を寄せ付けないような強いオーラはどこにも無い。
 この人はきっと春に生まれてきたに違いない。桜の降る日に、大きな祝福を受けて生まれて来た人なんだ……、そんなことを思わせる表情だった。
「私は里中さんとは逆。忘れないために関わっていたい……」
 陽はそう言って再びスケッチブックに視線を落とした。
「いつまでも、この人のために、桜を描き続けたい」
 スケッチブックの中、桜の花の下で独り立つ男性を、彼女はじっと見つめていた。
 智哉は思わず陽に尋ねる。
「その人は誰?」

 まさかこの質問を一番に口にするとは、彼自身思っていなかった。

 彼女はさっき、智哉を見ながらこの絵を描いた。Tシャツ姿の若い男性、勿論、智哉とは別人だ。咲いていない桜を見ながら、満開の桜を描くのと同様に、智哉を見ながら一体誰を描いたのか。
 両手を上げた青年の、元気一杯の様子が伝わって来る。単純な線で描かれた目はニッコリと笑っている。
 陽は唇を結んだまま、智哉の両の目をじっと見つめた。そのあとで、フッと視線を外した。
「ナイショかな」

 その悪戯っぽい笑顔が可愛いなと思った。

「これから、予定は? 良かったら夕食でも……あ!……クリスマスか……」
 日が悪かった。
 どう考えても、すんなり入ることのできるレストランは少ないだろう。いや、それ以前に、陽にもクリスマスの夜の予定はあるはずだ。
 陽は急に事務的な口調で言う。
「用がある時は、前もって連絡下さいって言いましたよね?」
 そんなことを言われても、会社じゃないのに。
 もの言いたげな智哉を見て、陽は笑っていた。



 陽と別れて自宅に帰ってから、智哉はPCの電源を入れた。
 自分のブログの中の桜の写真を見返していた。

 三谷陽は、どうして桜しか描かないのか。それはあの男性のためなんだ。
 その人はきっと、桜と大きな関係があるんだろう。彼の事を想いながら、寒くても暑くても公園に向かう。
 忘れないために桜を描き続けると言うくらいだから、その人とはもう二度と会えないのかもしれない。誰かと結婚してしまったのか、遠い所へ行ってしまったのか、あるいはもう、この世にはいない人なのか……。
 戻って来てくれない人をいつまでも好きでいるなんて辛くないんだろうか。
 いつまでもその人の面影を追い続けて、周りにいる人間のことを見ないつもりなんだろうか。

 智哉の中には、紡ぐ前の綿(わた)の塊のような、ぼおっとした感情があった。



 今はまだ容易に散らされそうなその意志(わた)だったが、数か月後、『彼』と『彼女』を繋ぐ糸となる。